天才はできない人の気持ちがわからない。
できないところからできるようになった人のほうができない人の気持ちがわかる。
みたいな話を聞いて
「確かに~」
なんて思ったけど、実際体験しても捉え方が人それぞれなので全く感覚違うよな。
と最近思う。
私自身、人が悲しかったり苦しかったりすることが結構平気だったりする。
自分や子供の障害受容についても悩みもしなかったし、子供の不登校についても悲しいとか苦しいとかがほとんどない。
私が子の不登校でしんどかったのは、世間から私の子育ての仕方を責められたり、やりたくないこと(無理やり登校させる等)を強要されたりすることが圧倒的にしんどかった。
自分の気持ちに反したことをしてたし、自分の育て方のせいでこうなってしまったんだ。って自分を責めたからね。
でもよくよく考えると、学級崩壊しかけてた学校の責任も大きいし、なんだったら通過点でしかない学校の先生になんで責められなきゃいけないんだって思った。
それからは私は私のやり方を信じて子供と対面してきている。
自分がされてつらかったことは子供には絶対にしたくない。
だから、子供の生き方やできてない部分を責めることや、親が良かれと思ってることを強制してさせるのだけは絶対にやりたくなかった。
だから、はたから見たらすごく甘い過保護な親だと思われてだろうね。
でも、知らんから。
お前ら私の子供の人生の責任とってくれるのか?
って常々思っている。
子どもの人生の責任は親だって取れないよ。
子どもの人生だから子供に決めてもらいたい。
たとえ、それが後々、後悔する結果になっても自分で選んだ選択なら甘んじて受け入れろ。
それが、生きるってことだ。
と、私は思ってるのよね。
私は相当やらかしてきた人生だったけど、その時の私ならそれ以外選択できなかったと常々思ってるし、もう二度とそんな思いしたくないものであれば必死にそうならないように努力するだけ。
そして、誰かに意見を求めたとしてもその意見を選んだのは私だから、鵜呑みにして信じた私がバカだっただけだから、人のせいにしたりは基本しないようにしてる。
他人のせいにしたって、今の私が幸せになるわけじゃないからね。
あ。ちなみに自分のせいにしてもそう。
なるべくしてなったと思ってるだけ。
ただ、これから先どう最善を尽くせるか。それしか考えてない。
と、タイトルと内容がまた変わってきてしまってるけど、私は結構こういう考え方なので悩んだり、後悔したりすることが少ない。
対処しなきゃいけない課題が多いなぁとは思うけど、それが不幸だとも思ってないし、そういうこともひっくるめて幸せになってやると常々思っている。
不登校の次男のことを可哀想と思ったこともなければ、不憫なと思ったこともない。
これが次男の人生であり、次男の生き方なんだもの。
次男が持っているアイテムやスキルでどう生きていきたいのか。が大事なのよ。
不登校なんてただの状況だし、学校に行く年齢でなければただの無職になるだけだし、発達障害も持っているアイテムの量や質だと思ってる。
みんなそれぞれ能力もアイテムも環境も違う中で同じ道を目指さなかいけないほうがおかしいんじゃない?
その子がその子らしく生きられるようにサポートするだけってこと。
私は次男に「お母さんは俺にどうなってほしいの?」と聞かれて食い気味で「幸せになってもらいたい!」と回答してしまった。
次男にとっての幸せの形が本人が分らないみたいだから、まだ見つかってないだけなんだよね。
幸せってどんな状態なんだろうね。
私は27歳くらいで「自分やばい。ちゃんとしたお母さんにならんと、子供に不利益被る」と思った時から、がむしゃらに自分改革してきたけど、そこから結構幸せなんだよね。
嫌なことも辛いこともたくさんあったけど、概ねいつも幸せ。
私の幸せは、私の周りの人が幸せでいてくれること、そして私自身もまぁまぁ毎日が楽しいことが幸せかなぁ。
結局、またタイトルと違う話になってるわ。
要は、体験してないものは分らんし、体験しててもやっぱり分らんっていう話。
要はになってないな。
まぁ、行間読んで(人任せ)